現代音楽論 アニソン作曲課題の提出 5

アニメのop曲を作曲するという課題です。


作曲:車戸亮太
この曲は、midiファイルなので、曲を再生するには右のリンクをクリックしてください。 20915023.mid

この人も作曲の経験者です。中間のスケッチ発表のときのやりとりにもありましたが、意図的に「ずっこけた」進行を考えたようです。

三度の下行や、最後の六度の重音の上行はそういう意味では成功しています。(ただ、これは定番かも)
創作的なのは主要なフレーズです。提出されたものがmidiファイルなので、勝手に楽譜にしました。

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結構技巧的なフレーズかもしれません。
臨時記号がいっぱいあって難しそうですが、メロディーは単純です。ハ長調に直すとシドレミをいったりきたりしているだけです。しかし、一音だけ凶暴にスケールにない音がまじっています。楽譜に赤い丸をつけたGの音です。ノンダイアトニックな音なので違和感があるとともに、伴奏のF#とオクターブ離れていますがぶつかります。さらにその前にもG#という半音間隔の音(青い丸をつけた音)があるので、よけいに耳を刺激します。ただ、ここでイレギュラーなのは青い丸の2つの音ではなく、わざとはずしたGの一音だけです。
ピアノで弾いてみたのですが、ゆっくりだと音はそれほどぶつかっていません。
しかし、midiのようなテンポがイメージの早さなら、前の音が残って聞こえるので、濁って聞こえます。
機転をきかせるのは赤のGだけにして、伴奏での音のぶつかりを慎重に処理した方がいいと私は思います。

現代音楽論 アニソン作曲課題の提出 4

アニメのop曲を作曲する課題です。


作曲:東竜太

この人は曲作りを日常的にやっている人です。
奇妙なのですが、作曲の経験者の人のほうが、変な曲を作りますね。いい悪いの問題ではありません。よくいえば「個性的」というのでしょうか。この曲にはちょっとコメントしにくいです。
構成的にはおかしなところはありません。3つのフレーズを2回ずつ繰り返しています。おそらく、私が問題に感じるとすれば、その3つが全く同じベースのフレーズにのっていることでしょう。この人はベースを弾く人なのですが、そちらに力点が置かれていて、全体を引っぱっているように感じますが、いかがでしょうか。







現代音楽論 アニソン作曲課題の提出 3

アニメのop曲を作曲するという課題です。


作曲:原野紗緒里

この人はちょっと別格です。
学生の提出物ではなく、作品として見ないといけないでしょう。 歌は本人でしょう。すごくうまいですね。
私の感想です。出だしの旋律がサビでも繰り返されます。ぶつけるような歌い方は非常に特徴的で(こんな歌手いたけど...誰だっけ)、「おっ」という感じです。この出だしは大変に印象的なのですが、ここからエンディングへ行こうという時の盛り上がりが弱くなったように思います。ですから、後半の音域が高いままですよね。メロディー・ラインも見えにくくなっています。歌っていてもつらくないですか。
音は外していないです。でも、外していないのですが、本来あなたのもっている声ののびがつぶれてしまったので、残念に感じています。
でも、全体に声は高音ですごくきれいです。低音が印象的になるともっと高音部が印象的になると思います。

私が作曲を習っていたイントラですが、ちょっと面白いことを言っていました。
ミスチルの桜井のうまいところは、サビでいいメロディーを思いついたら、「あえて」かなり凡庸なAメロをつけて落差をつける。そこのバランスがうまい、と。
この人以外にも、オリジナル曲を作ったことのある「経験者」の学生が何人かいます。結構、共通しているのが、Aメロ、Bメロ、サビのキャラクターの違いに乏しいところです。ですから、変わった曲にはなっているんですが、いわゆる普通にはやっているポピュラー曲のようにすんなり耳に入ってはこないんだと思います。
実力者ですから、これからも作り続けてください。






学生作品 Vermeer

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かの有名な、といってよいでしょう。フェルメールの『真珠の耳飾の少女(青いターバンの少女)』 (1665)です。
今回の課題でもこの二人だけではなく、さらに何人かこの絵を選択しました。たしかに、2010年は京都市美術館で大規模なフェルメール展も開催されましたが、それが理由ではないでしょう。

たしかに、1600年代という四百年前に描かれた絵です。描かれた人もそれほどの美人とは思えません。目が変な風に飛び出ているように思いませんか。
正直に言えば私は、フェルメールを少々苦手としています。

11.png 今回の演習で、『手紙を読む青衣の女』を取り上げた人がいました。
私はそこで空気感を指摘しました。ですが、この絵は背景が完全にゼロなので空気も存在しませんから、それも指摘できません。つまり、なりすましの実写についても、何もコメントを見つけられないのです。
にもかかわらず、毎年多くの学生がこの絵を選ぶのを不思議に思っています。皮肉ではなく単純に、私がわからないのです。

現代音楽論 アニソン作曲課題の提出 2

アニメのop曲を作曲するという課題です。


作曲:物袋成美
ちょっと、できすぎかな。最初の8小節のイントロくらいは、「やったな、こいつ」って感じでニコニコしてしましました。
このメロディーは中間発表で聞いたのを思い出しました。素直に発展させたのでしょう。メロディーはシンプルでよいです。
なぜそんなにできがよくなったかというと、途中で入るピアノや後半のシンセのオブリガードの存在ですね。すごく立体感があります。イントロの早い動きの部分もそうです。
でも、素人が作ったんだなと少し安心できるのが、Aメロのバッキングです。

いいイントロができたのに、Aメロが始まったとたんに、なぜコードが単純にボーン、ボーンって、スケッチの消し忘れみたいに棒弾きになっているんでしょう。これを違うリズム形に変えたら、異様に完成度があがったでしょうね。ただ、そこまで完成度を高くしたら、本当にお前が作ったの 、って疑われるかもしれません。

スタディのときは、最初の分散和音が延々と続いていて、うっとうしいと指摘したと思います。それをメロディーが始まるとすぐにカットしてくれたようです。いい感じになりました。

でも、よくできました。完全に三重丸です。







学生作品 Da Vinci 「洗礼者ヨハネ」

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ダ・ヴィンチの遺作といわれる「洗礼者ヨハネ」である。

この絵についてコメントされる典型的なポイントが「両性具有」である。絵の主人公は、バプテスマのヨハネという。イエスに洗礼をさずけ、戯曲「サロメ」でも知られる、ヘロデ王に首を斬られて死んだ聖人である。

町を捨て野山にくらしたことから、ターミネーターのように筋骨隆々に描かれることが多いが、この絵では女のように妖艶に描かれ、このポーズでも左手は乳房を隠すようにも見える。ちなみに、指を指している先は「天」だと言われる。

さて、なりすましとの比較であるが、ダ・ヴィンチのデッサンが正確であることがまずわかる。右の学生に比べて、頭が小さいのだがこれは日本人と西洋人のプロポーションの違いである。腕の比率についても、不自然なところはない。あえていえば、首から肩の先までの長さがかなり長いが、これが不自然な程度かは私は結論を留保したい。

やはりここで注目すべきなのは、このミステリアスなスマイルである。何に対してほほえんでいるのか。


現代音楽論 アニソン作曲課題の提出 1

アニメのop曲を作曲するという課題です。
作曲:山下遼
必須要件ではなかったですが、歌詞もボカロに入れてくれました。



一つ二つ気がついたことを書きます。

まず、最後にぶちっと切れるのは、最近のアニソンでもしばしば見る手法です。でも、タダ切れるのではなく、テレビでも余韻の響きが残るように感じます。かなり技術的な話です。私もどうやるのか知りません。しかし、ただ音がなくなるのではないことはわかります。

次に、音列ですが、意識的に和風の場所があります。四七抜きになっているかどうかはわかりません。その滑稽な雰囲気が少々中途半端に感じました。途中のチュートリアルでも似たような指摘をしたと思いますが、「へうげもの」を私は思い受けべるのですが、ここではその方向に向かっているのかいなか、ちょっと不徹底なような気がしました。

サビで転調しているように聞こえました(違うかもしれません)。これはよいと思いますが、エンディングに向けてのもりあがりの流れがもっと強くあればよかったと感じました。

楽譜を見ていたらもっと細かいところまで指摘ができるのですが、聞いた限りの印象でコメントしました。

学生作品 Magritte "le Fils de l'homme"

21118253.jpg20世紀のシュールレアリズムの画家、René Magritte, 1898 -1967の作品"Le fils de l'homme"、日本語では「人の子」と言われる作品である。

マグリットの自画像とされる。
「人の子」というのはキリスト教に関係している。もちろん、リンゴは旧約聖書の物語を暗示する。
顔のまんなかに浮遊するリンゴによって顔は隠れているが、全部見えないわけではなく、かすかに目がのぞいている。

この学生のなりすまし写真にはとくに工夫がないように見えるが、このリンゴはCGの合成ではなく、実際のリンゴにハシをつきさしてくわえているそうである。なかなか歯が痛くなりそうな話だ。

この人は、顔が隠れた自画像の意図をどう解釈したのだろうか。ただ、オリジナルの絵の解釈にも、定説はない。

現代音楽論 アニソン提出

アニソン提出については、こんな感じで結果発表します。ちなみに、この曲は私が練習で作ったものです。NHKの朝の連続テレビ小説のオープニング曲みたいな、ごく普通の曲を考えてみました。



学生作品 Domenico Feti 「改悛のマグダラのマリア」

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大学一年生の選択としては、ちょっとマニアックな選択である。この絵は、"The Repentant St Mary Magdalene", 1647-21,Galleria Doria-Pamphili (Rome) 、日本語にすると「改悛のマグダラのマリア」という。

画家のFetiは、17世紀のイタリア、バロックの時代の人で、34才という短い人生であったため、作品数は多くない。しかし、重要な画家に位置づけられている。

絵の主人公は、マグダラのマリアである。そして、左手に抱えているのはドクロである。ドクロは、マグダラを示すマリアを示すアトリビュートである。

マグダラのマリアは新約聖書のなかで、謎多い登場人物である。売春婦でリンチにあって殺されそうになっているところに、イエスが来て彼女を救い、これをきっかけにイエスに従った人物というのがよく知られている物語である。そして、イエスの弟子たる12使徒が全員男性のなかで、唯一マグダラのマリアだけが名前を記されている女性である。
映画「ダ・ビンチ・コード」では、マグダラのマリアが実はイエスの妻であったという、珍説のオチがついているくらい、いろいろな尾ひれがついている。

なりすましの写真だが、まじめな洋画の学生らしく、実に原画に近い出来になっている。写真と絵画がほとんど一致する点から見ても、Fetiのデッサンは普通に正確にできているといえる。
ただ、どうだろうか。
私にはおもしろみが欠けるように思える。
まじめにその通りなのだが、この学生も、Fetiもまじめにその通りに世界を写し取っている。これまで、いくつかの普通に見えて実は普通でない絵画を見てきた。絵画が写真とは別のおもしろさを持っているのはそんな部分にあるのかもしれない。もちろん、この絵が描かれたのは17世紀である。絵画は写真の代わりであった。
時代が違うのである。


学生作品 Norman Rockwell "The Gossip"

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Norman Rockwellは、20世紀アメリカのイラストレーターである。

「わたしが持っているものといったら絵を描く能力くらいで、それが自分の全てである以上、それを自分の生涯にしようとした」と語った、ウルトラ・テクニシャンの画家である。

この作家の作品を選んだのは、マンガ学科の学生グループであった。十人程度の学生が扮装をして写真を撮り、一人が一枚の画像にまとめた。
力作ともいえるが、なぜか私はこのなりすましの作品から発見する内容が少ない。つまり、あまり成功しているようには思えない。なぜだろうか。

たしかに、帽子をかぶったり、スカーフをしたり、小道具をそろえるなど工夫をしている。
しかし、根本的に、見ている人に伝わらないのは、「表情」である。ロックウェルのコミカルで、演劇的ともいえる表情の、誇張された大きさが、なりすましでは弱すぎるのである。というか、ロックウェルのコミニケーション力の強さの真骨頂がそこにあるのだと発見すべきであろう。

これを見ながら、アニメの実写版が成功しないことを思い出した。「こち亀」とか「サイカノ」とか無数にあるアニメの実写版には、酷評しか与えられたためしがない。
それは、二次元の世界で純化された視覚要素が、三次元の実世界になることで無数の不要な視覚要素で乱されることで、伝達力が致命的に弱くなるからである。「エヴァ」や「けいおん」の実写版を作ってほしくないと考えるのは、私だけではないと思う。

学生作品 岸田劉生「麗子像」

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岸田劉生の「麗子像」、詳しく引用するなら、重要文化財≪麗子像≫1921年、東京国立博物館である。


下に書いた黒田清輝の「湖畔」と同じく、私にとって昔から奇妙に感じていた絵である。たしかに、岸田は黒田清輝の弟子だった時期もあるが、それは関係ない。


岸田劉生というのは、日本の美術史に残る洋画家なのだが、その人生は38才という短いものであった。

松岡正剛という現代の編集者はHPで彼の『美の本体』というエッセイをとりあげている。

「僕の画には近代的なところが欠けているかもしれない」と、岸田は言う。

グリーンバーグ的な意味での「近代性」は、絵画によって絵画を再定義することだから、岸田の絵にはこうした意味での「近代」はない。


自分の娘、麗子を描いた多くの絵がある。が、この絵はどうしてこう気味が悪いのだろう。

なりすましの顔と比較してみても、プロポーションがまったく奇妙である。横方向だけ間違えて引き延ばしたような、まるでエジプトのツタンカーメンの彫刻のようだ。

下の右の絵も岸田の麗子(《林檎を持てる麗子》,1919)だが、普通の女の子である。

しかし、左の絵(《野童図》)は気味悪い。もっとも、この絵は寒山拾得にみたてたものだというから、普通の肖像ではないようだ。

なんでこんな気味の悪い顔に描き、それに満足したのだろうか。それに、右の絵があまりに普通で魅力に欠けるのに対して、野童図の気味悪い魅力はなんだ。

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誰かの顔を描いていながら、どうしてこんなに違った顔になるのだろうか。顔を描くという単純な行為でありながら、何を描くのか、その多様性さを読み解くことがここでの鍵となる。


学生作品 バルチュス「テレーズ」

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20世紀最後の巨匠と言われる、バルチュス(Balthus)の『テレーズ(Thérèse)』である。

バルチュスというのは、ときに、どきっとするほどエロティックな絵を描いて物議を起こす画家である。この画家の少女に対する危ないエロスについて語るには、私は今少し勉強不足だ。

この学生はテレーズの若いエロスをどう感じたのであろうか。
足の組み方が逆だが、意識的なのか?オリジナルの組み方の方が足が大きく開く。それに抵抗を感じたとすれば、そんなところにも絵を読み解くヒントがあるかもしれない。

もう一つ言えば、この美大の学生たちが躊躇して踏み越えることのできない、エロスという人間の本質へのアプローチが隠れている。この学校はけっして挑発的にはならない・なれない、保守的な場である。

インスタント・ラーメン論 5

20807038.jpg山口沙織‏

今回インスタントラーメンを買うにあたって、売り場で陳列されているカップラーメンのパッケージに注目したところ、ある法則に気づいた。 ラーメンの味によって色分けされているのだ。
醤油ラーメンは赤色、塩ラーメンは青色、豚骨ラーメンは緑色、担々麺と味噌ラーメンはだいだい色といったように、どのメーカーにも関わらずまるで味の種類で色が統一されているかのように分かれている。 私達は普段当たり前のように多くのカップラーメンを見てきているが、注目するのはパッケージのイメージ写真ばかりで色に対しては何の疑問も抱くことなく見過ごしてしまっているような気がする。
何故、豚骨味は緑色なのか。もし黄色だったらどうだろうか。 私たちは色の変化に気づくことは出来るだろうか。 醤油ラーメンを連想する色は赤で、塩ラーメンが青なのは何となく分かる。 余った色を豚骨に割り当てたのだろうか。
パッケージのカラーというのはメーカーがラーメンの味のイメージカラーを作り、私たちが無意識にそれを理解している状態だ。 パッケージは商品の顔である。販売する上で一番重要な要素であり、その一つの情報で人々の目を引きつけさせなければいけない。いかにその商品を魅力的においしく見せるかが勝負である。
このように、カップラーメンに限らずそれぞれの味のイメージに合った最良の色で消費者の食欲をそそらせるようにパッケージは作られている。

レトルト・カレー論 1

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山﨑綾音‏

最近「個性」という言葉をよく耳にする。
  ある授業で、「学校はすべて自由服にするべき」というテーマでディベート を行った。その議論の肯定側が「みんな制服という同じ服を着ていたら個性が失 われる。」と言った。私はその言葉に疑問を持った。はたして本当にそうなのだ ろうか。
  確かにみんな同じ服を着ていたら、それだけで全員が同じ人に見える。校則で スカートの丈から髪型まで、きっちり決まっている学校だってある。そのせいで 個性が伸びないと思われるだろう。
  しかし、みんなが同じ服を着ただけで本当に個性は失われるのだろうか。たと えば、携帯電話。最近の携帯電話は似たものが多くて、どれも同じもののように 思える。でもよく調べてみると、この機種は画質がきれいだとか、この機種は音 質がいい、電波がいいなど、それぞれに特徴があり、またそれを売りとしている。 あんな小さな機械なので、機能を詰め込むのにはやはり限界がある。その限られ た中で、それぞれに利点を持たせている。それは一種の「個性」と言えないだろ うか。
  もっと例を挙げると、私は異なる5種類のカレーを食べた。カレーというと、 液状のカレールーに具が入っているという1つの一般的なイメージが浮かび上が るだろう。しかし、そのルーの味も具も、カレーの種類によって違うのだ。たと えば、こくまろカレーは野菜の具が大きいし、ディナーカレーは肉が大きい。カ レールーの味でいうと、ポンカレーには隠し味に赤ワインやブドウが使われてい たり、こくまろカレーには他のカレーよりオニオンがふんだんに使われている。 材料の違いによりカロリーや賞味期限にも差が出てくる。それにより、カレーと いう1つの料理でも様々な味が出るのだ。決まった味や材料の中で、どのカレーよりもおいしいものに仕上げるために、このような他とは違った工夫をするのだ。 それにより生まれた違いも「個性」と言えるのではないだろうか。
  つまり、限られた制限の中でも、個性を発揮することは可能なのだ。服が同じ だから個性が失われるなんて、そんなことはない。国語が得意な子もいれば、数 学が得意な子だっている。大人びた子もいれば、やんちゃな子だっている。外見 が制限されただけで、他にも個性を出せる場はいくらでのあるのだ。それでもま だ個性が失われると言うのならば、それは自分が個性をアピールしきれていない のだ。携帯電話やカレーのように、限られた中で自分の長所を出していく。それ がひとつのアイデンティティーの確立につながっていくのだ。

インスタント・ラーメン論 4

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加藤千華子

私たち人間はどの時代も、「笑い」を必要としてきた。多数のお笑い芸人が、テレビなどのメディアに多く露出するなどの、「お笑いブーム」と呼ばれる現象も生まれた。「第○次お笑いブーム」という言い方や、「お笑い第○世代」と芸人を呼び分けることもある。
これまでに何度も「お笑いブーム」と呼ばれる時期があり、人々の周りには笑いがあり、テレビをつければお笑い芸人が溢れていた。
1960年代の演芸ブームから生まれたお笑い第一世代。1980年代初期の漫才ブームから生まれた第二世代。1980年代後期の第三世代。1990年代後期の第四世代。2000年代初頭から現在にかけての第五世代という具合だ。
人々の生活との繋がりという同一点から、「カップ麺」を例にあげてみよう。
「カップ麺」といったらこれ、日清食品が世界初のカップ麺として1971年9月18日から発売し、今もなおロングセラー商品の「カップヌードル」。しょうゆ、シーフード、ミルクシーフード、カレー、チリトマトの5食を食してみた。
お笑い第五世代以前の大御所芸人や中堅芸人といったような、どの時代も幅広い年代に愛され求められ、やっぱりこれだなと思わせ、今でも根強いファンがいるような点は、例えるならカップヌードルしょうゆ味、シーフード味、カレー味といったところだろうか。
お笑い第五世代の、若い世代から絶大な支持を得る、つまり、若者にとって身近に感じやすい同世代の芸人のような、お笑い界で新しい味をつくり出し今をときめく若手芸人は、例えるならカップヌードルミルクシーフード味、チリトマト味といったところだろうか。
 今、その「お笑いブーム」が終わってしまうのでは?という声があがっている。その理由として、数々の劇場の閉鎖、2010年代に入ってのネタ番組の終了などに伴い、芸人の活躍の場が無くなってしまったことがあげられる。その一方で、トーク力を試す番組が目立つようになり、実力が伴わなければ使い捨てられるといった、芸人の淘汰が起きているのも現状だ。
 しかし、まだまだ終わってなどいない。むしろ今からが勝負なのではないだろうか。これからも、たくさんの笑いを生み出してほしい、私たちをもっともっと笑わせてほしいのだ。

インスタント・ラーメン論 3

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渡辺ゆん太

 母と子というのは難しいもので、親しいようでいてどこか触れにくいところが あったり、親しいからこそ自分の勝手な思い込みを互いに押し付けてしまったり する。大学に入ってからというもの、なかなか落ち着いて話をしたり、意見を交 換する機会が母と持てないでいた。そのことで、話が合わず、仲がこじれそうに なったこともあった。そんなとき、今回のラーメン評論があった。

世の中にはいろんなラーメンがある。インスタントラーメンもまたしかりだ。 私が小さかったころは、よく母と旅行をし、世界各地を歩き回ったものだった。 今では母も落ち着いたのか、そうした旅行に連れていってくれることも少なくな った。けれども、旅はどこにいても体験できる。それを知ったのが、母との「ラ ーメン旅行」であった。

 デパートに行き、無作為に選んだ麺たち。それは気づけば、大きな広がりを持 っていた。 「北海道スパイシースープカレーラーメン」。不思議な麺の名前につられて買っ た。「熊本ラーメン」。今度は日本を飛んで、韓国の「チゲラーメン」。昔から ある定番「チキンラーメン」、「エースコックワンタンメン」。日本列島を横断 し、お隣の韓国へも渡る。味覚を通じて、旅をする。母と、久しぶりの味旅行だ。

 二人でチキンラーメンを食べながら、あれこれ話した。「昔、お母さんのずっ とちいさかったころは、ラーメンなんてほとんどなかったなあ。なつかしい味が するよね。お母さんこどものころ食べてた。おやつに食べてたねえ。」といって、 ビールを注いでくれた。母とこんな話をしながら食事をしたのは、本当にいつだ ったのか忘れてしまうほど、久しぶりだった。

 「北海道スパイシースープカレーラーメン」。どこか不思議な味がして、行っ たことのない場所の、行ったことのないお店に、迷い込んだようだった。「ちょ っと粉っぽいかなあ」と母。大きくなった子と、ひととおりの子育てを成し遂げ た母との会話は、ちょっぴり粉っぽくて、スパイスがほんのり香るものなのかも しれない。
「チゲラーメン」。これはダシが聞いていて、麺にもコシがあっておいしい。 「うん、おいしい」、とボソッとつぶやく私。ピリっと辛味もきいて、ビールを ぐいっと飲みほした。 おなかがいっぱいになったので、翌日に。今度は兄も加わって、「エースコッ クワンタンメン」を食べた。一同そろって、「うん、おいしい」。

 「熊本ラーメン」は一人で食べた。味は甘くて、まろやかで、洗練された風味 や技術を彷彿とさせた。一人で口にする麺は、さすらいの旅のように、しっとり とした静かな時の流れがスパイスとしてきいていた。

 味覚の旅から帰った後、母、そして兄とも、まるで麺が湯の中でほぐされていくみたいに、うちとけていた。朝、母のつくるみそ汁をすすった時、これが故郷の味だったんだなあと気づいた。

インスタント・ラーメン論 2

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新井 由希子

「インスタントラーメン」は別名称「即席麺」と呼称され、その名称からもわかるようにすばやく食べることができるだけでなく、長期間保存しておくことができる食べ物である。「安くておいしく手軽に食べることの出来るラーメンを」という目的で売り出されたインスタントラーメンであるが、今や単なる「簡易食」や「保存食」という領域を超えて、「味覚を楽しむための食べ物」と化してきている。
  というのも、今日コンビニやスーパーに行けば、ラーメン屋さんよりもたくさんの種類のラーメンが袋やカップに入って棚にならんでいる。中にはどこのラーメン屋さんでも食べることのできないような味のラーメンも売られている。
 その代表的な例としてあげられるのが、日清の「カップヌードル」だ。「インスタントラーメンを国際商品に」という目的の基に作られたこともあり、しょうゆや味噌などのそれまでのラーメンの概念に捕われない味がたくさん発売されている。 その中でも代表的な味が、しょうゆ、カレー、チリトマト、シーフード、ミルクシーフードの5種類である。

  しょうゆ味は日本人の口に合うような絶妙なコクとこってりさになっている。カレー味はラーメンとゆうよりはむしろカレーを食べているかのように思うほどなんの違和感もない。汁っぽくなくもしっかりカレーの味がして、それでいてラーメンなのである。チリトマト味はラーメンを食べているのにパスタを食べているかのような味が楽しめる。シーフード味は魚介類独特の臭みもなく、インスタントなのにも関わらずしっかりとシーフードの味がする。そしてそれをホットミルクで作るとおいしいとゆうネット上の噂に注目して作られたミルクシーフードは、意外すぎる組み合わせなのにミルクによって増したコクとうまみが何とも言えないおいしさをつくり出している。

  このようにラーメンと全く別な食べ物の掛け合わせでつくられているカップヌードルのラーメンは、安くておいしく手軽に食べることが出来るでけではなく、カップヌードルでしか味わえない新しい「ラーメン」を私たち消費者に提供しているのだ。  今日私たち消費者は「インスタントラーメン」を「簡易食」や「保存食」としてだけではなく、ひとつの「味覚を楽しむための食べ物」として求めているのである。今やこういった「即席麺」は、「簡易性」や「保存性」よりも、「お店とはちょっと違ったラーメン」を楽しめるような「独自性」と「おいしさ」が求められているのではないだろうか。

インスタント・ラーメン論 1

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21102018.jpg渋谷貴子

はじめに

現在、社会は大量生産・大量消費の時代を迎えている。新技術、新商品、新薬品等新しいものが次々に巷に溢れ返り、便利な社会となっている。そのなかにおいて食品業界において、より革新的であると言えるのはインスタントラーメン(即席麺)の開発であったと言えよう。湯を注いで数分待つだけで、温かいラーメン料理が出来上がる。少なくとも現在の日本人に欠かすことできない代物であると言えよう。調理の手間を省く為に、保存食として、あるいは間食になど様々な時間・場面で消費されている。
では、何故、即席麺は人の心を惹きつけるのであろうか。今回は味と風味、素材など料理に絞って論じることにする。

1、味と風味
 (1)今回検証に使った即席麺  ①コーンバター塩ラーメン、②とろーりチーズのカレー鍋風ラーメン、③中華そば 青葉、④本気盛コク辛味噌、⑤京都豚骨しょうゆラーメンの5種類を二日に分けて試食した。
 (2)両者のバランス  まず初めに私がこの5種類を食した後に感じたことは、各々様々な涼味量が含まれていることから「個性」が現れていると感じたのである。それは単なる辛い、酸い、甘い等の一種だけで表現される感覚ではなく、「この風味と麺が丁度合い、このような味を出している」等のように非常に深みのあるものであった。

2、舌触りと腹持ち
  (1)意外な舌触りと感覚  私が最初に①を食した際、バターが入っていることから少しべたつくのかと思いきや、舌触りは滑らかであり、逆に④の方は辛味噌の辛みが長い間残り、少し舌が火傷したような感覚になった。また⑤も豚骨であることから見た感じは油が多いと感じていたが、残り汁を飲んだ際、重く感じることはなくあっさりしていたように感じだ。
  (2)組み合わせ  私がこのように感じだ理由を考えた場合、主に二つが挙げられる。一つ目は「塩+バター」、「豚骨+しょうゆ」のように「あっさり+こってり」 の組み合わせをチョイスしている、二つ目は日本の五大調味料「さしすせそ」のいずれかが含まれていることである。日本人の代々受け継がれる「和の素材」を組み込むことにより、日本人に親しまれている味に近づき、愛され続けているのである。②の場合、濃厚な味わいであったが途中で飽きが発生し、食欲が減退したことからもそう言えよう。

おわりに
以上、二章構成で論じてきたわけであるが結果的に、①味と風味、②舌触りと腹持ちのちょうど良いバランスにより、即席麺は人の心を惹きつけると言える。だが今後ますます商品開発が進んでいくに違いないが、その一方で今一度私達の食生活を見直すべきではないかと切実に思う。

Science & Art "Math Art"

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3・4年前にやったサイエンスとアートでの講義内演習である。
数式を三次元化するフリーソフトを使って、任意の形を発生させる。面白い形ができるまで、パラメーターやレンダリングをいじる。

そして、できた形を何に使えるか考えてイラストにするという練習だ。

20分くらいの遊びだが、こんな絵をちょいちょいと描けるというのも、才能の一つだ。こんな学生と授業をしていると楽しい。